《少女神域~少女天狱》官方设定集(日语带机翻)和表情包

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《少女神域〜少女天獄》官方设定集中日对照版(机翻)纯文本

官方设定 集百度网盘下载链接(PDF)日文

官方表情包(有水印和无水印)压缩包.zip

表情包在文章结尾处,这份表情包可以说是市面上绝版也不为过。

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纯图片(一些完整的横图):


正文内容:


日文原文:

『少女神域〜少女天獄』は、遥か古の時代から連綿と重ねられた歴史を縦糸、

時間の積み重ねられ変化し続ける土地を横糸として、

複雑に織り成された世界観の中で生きる人々の物語です。

その過剰な背景設定は、物語の表層のみでは伺い知ることができない

深さに達してしまっている可能性は否めません。

そこで、そのごく一端をここでお見せし、設定資料から読者の皆様に

『少女神域〜少女天獄』という作品への興味を持っていただければと思います。

中文机翻:

《少女神域〜少女天獄》以纵贯古今的悠久历史为经线,以随时间流转而变迁的土地为纬线,编织出一个错综复杂的世界观,讲述了生活于此的人们的故事。

不可否认,作品过于庞大的背景设定,其深度可能已远超故事表层所能触及的范围。

因此,我们在此展示其中的一隅,希望通过这些设定资料,能激发各位读者对《少女神域〜少女天獄》这部作品的兴趣。

日文原文:

大学生の稜祁恂(たかぎ しゅん)は、幼なじみとともに故郷へと帰ってきた。

ガルデラ盆地の内側にある彼らの故郷――佳城(かいじょう)市が特異なのは、その地形のみならず、取り囲むように連なる石壁の存在があるからだ。外から見れば石の城砦のように見え、町の名の由来ともなっていたが、そこに産まれ育った恂(しゅん)にとっては、子どものころは自分を閉じ込める石の檻のように感じていた。

町に敷かれた一本の線路の先――トンネルをくぐり抜けた先を、幼い頃から夢見ていた。外の世界に憧れを抱き続けていた恂(しゅん)が、大学進学とともに故郷から旅立とうとしたのは当然の流れではあったが、本人が思っている以上にあっさりと、その夢は実現してしまった。そして、新しい一年が瞬く間に過ぎ去り、春が訪れる。

古い歴史を持つ彼らの故郷では『星鴻祭(せいこうさい)』という祭りが催されようとしていた。それは、恂(しゅん)の家が代々氏子を務めてきた神社の祭りであり、今年は20年に1度の特別な神事が行われるという。恂(しゅん)の妹である稜祁祥那(たかぎ さな)や幼なじみたちが、神事の重要な役を任されたこともあり、恂(しゅん)も帰省しなくてはならないプレッシャーを感じていたが……。

「今年、巫女さんでがんばっちゃうから、ぜーったい一緒に帰りましょうね!」

同じ大学に通い、下宿先まで紹介してくれた幼なじみ、澳城迪希(おくしろ ゆき)の有無を言わさない笑顔が、彼に止めを指した。彼女もまた、今年の『星鴻祭(せいこうさい)』で祥那(さな)と同じ重要な役――神楽を舞う巫女の一人として選ばれたのだ。

そういった理由で、故郷の土を1年ぶりに踏んだ恂(しゅん)は、駅のホームで悲しげな表情で立つ壟峯碧織(つかみね みおり)を見かける。子どものころはボーイッシュで男の子の遊びをいっしょにしていた碧織(みおり)だが、いつのころからか疎遠になってしまっていたのだ。目撃したのは一瞬だったが、その悲しげな表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。

実家に帰ると、祥那(さな)の親友である道陵愛莉(みちおか あいり)とも再会することができ、故郷へと帰った実感を得ることができた。

町全体が『星鴻祭(せいこうさい)』に向けて動き始め、乗り気ではなかった恂(しゅん)も、その日々の中に溶け込んでいく。1年ぶりの故郷を客観的に見ることが出来た恂(しゅん)は、今まで気付けなかった幼なじみの意外な一面などを知り、互いの想いを育んでいく。

だが、祭りの準備が着々と進む中で、その裏では恂(しゅん)たちが想像もしていないような暗く恐ろしい運命の歯車が動き始めていた。それは恂(しゅん)だけでなく、彼を慕い想う少女たちも、運命の中へと引きずり込み、逃れられない深い闇へと誘おうとする。

まだ、自分たちの宿命を知らない少年少女たち。彼らは石壁の町に隠された真実と向き合ったとき、いったい何を想い、どう選択するのだろうか?

机翻中文:

大学生稜祁恂(たかぎ しゅん)与儿时玩伴一同回到了故乡。

他们的故乡位于加尔德拉盆地的内侧——佳城(かいじょう)市的特异之处,不仅在于其地形,更在于那环绕四周、连绵不绝的石壁。从外部望去,它宛若石砌的城塞,这也成了城镇名称的由来。然而,对于在此出生成长的恂而言,童年时却觉得这石壁如同囚禁自己的石笼。

他从小便梦想着沿着镇上铺设的唯一一条铁轨,穿过隧道,到达的那一端。一直向往着外部世界的恂,随着上大学而离开故乡,本是顺理成章之事,但这个梦想实现得却比他预想的要轻易得多。

而后,崭新的一年转瞬即逝,春天来临。

在他们历史悠久的故乡,一场名为“星鸿祭(せいこうさい)”的祭典即将举行。这是恂家世代担任氏子(信奉者)的神社的祭典,据说今年将举行二十年一次的特殊神事。由于恂的妹妹稜祁祥那以及儿时玩伴们都承担了神事中的重要职责,恂也感到了不得不返乡的压力,但是……

“今年我会作为巫女努力加油的,所以你一定要一起回来哦!”

在同一所大学就读,连租房都帮忙介绍过的儿时玩伴——澳城迪希(おくしろ ゆき)那不容分说的笑容,让他下定了决心。她今年也被选为“星鸿祭”中与祥那同样重要的角色——担任神乐舞的巫女之一。

因此,时隔一年再次踏上故土,恂在车站的月台上,瞥见了面带悲伤伫立着的壟峯碧織(つかみね みおり)。童年时像个假小子、总和他们一起玩男孩子游戏的碧織,不知从何时起变得疏远了。虽然只是瞬间瞥见,但那悲伤的神情却深深烙印在他的脑海,挥之不去。

回到家中,又与祥那的好友道陵愛莉(みちおか あいり)重逢,这让恂终于有了回到故乡的实感。

整个小镇都开始为“星鸿祭”运转起来,原本并不热衷的恂也逐渐融入了这样的日常。能够客观地看待时隔一年的故乡,恂察觉到了以往未曾留意的玩伴们意外的一面,彼此间的情愫也在悄然滋长。

然而,就在祭典筹备工作稳步推进的同时,在其背后,恂他们无从想象的、深邃而可怕的命运齿轮,已经开始转动。它不仅要将恂,也要将那些倾慕于他的少女们一同拖入命运的漩涡,诱向无法逃脱的深沉黑暗。

尚不知自身宿命的少年少女们。当他们直面这座石壁之城所隐藏的真相时,究竟会作何感想,又将做出怎样的抉择呢?


日文原文:

佳城(かいじょう)市

佳城(かいじょう)市は、かつて活動していた低地火山による特異な盆地を形成しており、中央はなだらかな平野になっているものの、市の外縁部分は一種のカルデラ壁のような地形を成している。

京都や奈良という古都も盆地に作られていることから考えると、このカルデラ盆地に佳城(かいじょう)という古い歴史を持つ街が形作られていくことを理解していただけるだろう。

(Lass作品の舞台である「綾篠(あやしの)市」や「綾女ヶ丘(あやめがおか)市」も盆地である)

カルデラのよい比較例としては熊本県阿蘇地方に存在する阿蘇山が最良のモデルであるが、大規模な火砕流堆積物や目立った外輪山のような地形である佳城(かいじょう)市のような例はあまり存在しない。

佳城(かいじょう)市独特の景観として、古くから自然石を利用したり、人の手によって作られた巨大な石壁や石碑が、市内を取り囲むように立てられてきた。

これら石の遺跡は『九頭龍列石群(くずりゅうれっせきぐん)』と呼ばれ、佳城(かいじょう)市を代表するシンボルのひとつとなっている。

この石壁や石碑は佳城(かいじょう)市の外側――つまり、カルデラ壁のような傾斜の途中、またその頂点部分(外縁)に立てられている。

それはあたかも、カルデラ壁を補強するかのようであり、そこに住む人々が陸路を使って他の土地へ赴く場合、一種の城壁のようにさえぎられることとなる。

盆地(ぼんち)を形成(けいせい)している火山(かざん)は、標高(ひょうこう) 百十一(ひゃくじゅういち)メートルの休火山(きゅうかざん)。

社(やしろ)のある中心部(ちゅうしんぶ)に向かって全体的(ぜんたいてき)に緩(ゆる)やかな坂(さか)の状態(じょうたい)になっていて、あまり百(ひゃく)メートル前後(ぜんご)の高低差(こうていさ)があるとは感(かん)じない。

なお、佳城(かいじょう)市には大きく六(むっ)つの町(まち)、

・ 白鷺(はくろ)町(まち)

・ 岩坂(いわさか)町(まち)

・ 日諸木(ひもろぎ)町(まち)

・ 馬渡石(まといし)町(まち)

・ 巻狩(まきがり)町(まち)

・ 貝寄(かいよせ)町(まち)

によって形成(けいせい)されている。


大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)

佳城市に存在する神社。別名は『岩蜂妙見宮(いわばちみょうけんぐう)』。

式外社。近代社格では県社。現在は単立神社。

祭神は大忌比古命(おおいみひこのみこと)、大物忌神(おおものいみのかみ)、天日鷲神(あめのひわしのかみ)、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、九頭龍大明神(くずりゅうだいみょうじん)。

社伝によれば天慶三年(西暦940年)の創建とされているが、別伝も存在する。

社殿造営の関連文献によれば、先ず永暦二年(1161年)、二条天皇の勅命によって社地が暫定的に定められ、建保五年(西暦1217年)、大江広元(おおえのひろもと)が大規模な造営工事に大いに関与した記録が残っており、その時現在の社地および社殿の規模が定められたことを考慮すると、実質的な創建年代は建保五年となる。

参道の脇には毛利隆元(もうりたかもと)など戦国期の著名な武将たちから献燈された大きな石燈籠が残っており、古来から崇敬を集めていたことが窺われる。

中文机翻

佳城(かいじょう)市

佳城市形成于一座曾经活动的低地火山所造就的特殊盆地,其中央部分是平缓的平原,但城市外围区域则构成了一种类似火山臼壁的地形。

考虑到京都和奈良等古都也都是建于盆地之中,想必您能够理解,这座火山臼盆地是如何孕育出佳城这座历史悠久的城市的。

(Lass作品的舞台“绫篠市”和“绫女丘市”也位于盆地之中。)

若要寻找合适的火山臼比较范例,熊本县阿苏地区的阿苏山是最佳模型,但像佳城市这样,拥有大规模火碎流沉积物和明显外轮山地形的例子则较为罕见。

作为佳城市独特的景观,自古以来,利用天然岩石或人工建造的巨大石壁和石碑,便如同环绕市区一般矗立着。

这些石造遗迹被称为“九头龙列石群”,是代表佳城市的象征之一。

这些石壁和石碑建立在佳城市的外侧——也就是类似火山臼壁的斜坡中途以及其顶点部位(外缘)。

它们仿佛是为了加固火山臼壁而设,对于当地居民若想经由陆路前往其他地区,这些石壁便如同一种城墙般形成阻隔。

形成盆地的火山,是一座标高111米的休火山。

整体呈现为朝向神社所在中心区域的缓坡状态,因此不太能感受到百米左右的高低差。

此外,佳城市主要由六个町构成:

・ 白鹭町

・ 岩坂町

・ 日诸木町

・ 马渡石町

・ 卷狩町

・ 贝寄町


大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)

一座位于佳城市的神社。别名为“岩蜂妙见宫(いわばち みょうけんぐう)”。

属于式外社(指未列入古代律令制官社体系的神社)。在近代社格制度中列为县社。现今为单立神社(指不受特定宗教法人管辖的独立神社)。

祭神包括:大忌比古命(おおいみひこのみこと)、大物忌神(おおものいみのかみ)、天日鷲神(あめのひわしのかみ)、鸟之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、九头龙大明神(くずりゅうだいみょうじん)。

据神社传承记载,其创建于天庆三年(公元940年),但也存在其他说法。

根据社殿建造的相关文献记录,首先在永历二年(1161年),依据二条天皇(にじょうてんのう)的敕令,神社用地被暂定下来;至建保五年(公元1217年),留有权臣大江广元(おおえのひろもと)深度参与大规模营建工程的记录。考虑到现今的神社用地和社殿规模是在彼时确立,故实际的创建年代应定为建保五年。

参道旁残留着毛利隆元(もうりたかもと)等战国时代著名武将进献的大型石灯笼,由此可见该神社自古便备受尊崇。


日文原文:

岩蜂妙見遺跡群(いわばちみょうけんいせき)

佳城市に存在する神社。別名は『岩蜂妙見宮(いわばちみょうけんぐう)』。

式外社。近代社格では県社。現在は単立神社。

祭神は大忌比古命(おおいみひこのみこと)、大物忌神(おおものいみのかみ)、天日鷲神(あめのひわしのかみ)、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、九頭龍大明神(くずりゅうだいみょうじん)。

社伝によれば天慶三年(西暦940年)の創建とされているが、別伝も存在する。

社殿造営の関連文献によれば、先ず永暦二年(1161年)、二条天皇(にじょうてんのう)の勅命によって社地が暫定的に定められ、建保五年(西暦1217年)、大江広元(おおえのひろもと)が大規模な造営工事に大いに関与した記録が残っており、その時現在の社地および社殿の規模が定められたことを考慮すると、実質的な創建年代は建保五年となる。

参道の脇には毛利隆元(もうりたかもと)など戦国期の著名な武将たちから献燈された大きな石燈籠が残っており、古来から崇敬を集めていたことが窺われる。

佳城市の外周に存在する、古墳時代(こふんじだい)から鎌倉時代(かまくらじだい)までの複数の遺跡の総称。

大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)の通称『岩蜂妙見宮』から名前が採用されている。

別名『九頭龍列石群』(くずりゅうれっせきぐん) とも呼ばれるが、こちらは平安時代(へいあんじだい)初期から江戸時代(えどじだい)後期と、長期間に渡って佳城市を取り囲むように作られてきた大量の石碑(せきひ)や、自然あるいは人工による石壁(せきへき)を限定的に指す。

遺跡群を大きくわけると、

①「古墳時代から奈良時代(ならじだい)」

②「奈良時代から平安時代」

③「平安時代から鎌倉時代」

の三期にわけることができ、こういった複数の時代の遺跡が重なるように遺されているものを、『複合遺跡』(ふくごういせき)という。

特異な盆地地形のためか、山裾(やますそ)や山中における各時代の住居跡(じゅうきょあと)が全国的にも珍しく、現在でも発掘調査(はっくつちょうさ)が続けられている。

この列石群(れっせきぐん)の成立については、現在も学術的に判然(はんぜん)としておらず、現在も佳城市教育委員会(かいじょうしきょういくいいんかい)や十都川大学(とつかわだいがく)を始めとした教育機関が各種の調査を行っている。

文献資料では、弘安六年(西暦1283年)の阿仏尼(あぶつに)『十六夜日記』(いざよいにっき)に「作り石多く、いとさがしき岩山を、くだる人のあしもとゞまりがたし」と初めて言及されており、少なくとも鎌倉時代には複数の石壁や石碑が建てられていたことが推測できる。


姫射干/姫著莪(ひめしゃが)

佳城市の市花は、ヒメシャガ(姫射干、姫著莪(ひめしゃが))。
盆地斜面や森林部分に群生している。 佳城市のヒメシャガは紺色から青紫色の花が多く、花期が三月下旬から四月下旬と通常種よりも早咲きである。
もともと耐寒性に強い植物であるものの全国でも珍しいケース。
他の地域で移植されたことがあったが、通常のヒメシャガと同じような成長 ・開花しかみせず、その色と早咲きに関しては佳城市の土壌が影響しているのではないか? と指摘される。

中文机翻:

岩蜂妙見遺跡群(いわばちみょうけんいせき)

一座位于佳城市的神社。别名为“岩蜂妙见宫(いわばち みょうけんぐう)”。

属于式外社(指未列入古代律令制官社体系的神社)。在近代社格制度中列为县社。现今为单立神社(指不受特定宗教法人管辖的独立神社)。

祭神包括:大忌比古命(おおいみひこのみこと)、大物忌神(おおものいみのかみ)、天日鷲神(あめのひわしのかみ)、鸟之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、九头龙大明神(くずりゅうだいみょうじん)。

据神社传承记载,其创建于天庆三年(公元940年),但也存在其他说法。

根据社殿建造的相关文献记录,首先在永历二年(1161年),依据二条天皇(にじょうてんのう)的敕令,神社用地被暂定下来;至建保五年(公元1217年),留有权臣大江广元(おおえのひろもと)深度参与大规模营建工程的记录。考虑到现今的神社用地和社殿规模是在彼时确立,故实际的创建年代应定为建保五年。

参道旁残留着毛利隆元(もうりたかもと)等战国时代著名武将进献的大型石灯笼,由此可见该神社自古便备受尊崇。

对存在于佳城市外围、从古坟时代(こふんじだい)到镰仓时代(かまくらじだい)的多个遗迹的总称。

其名称来源于大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)的通称“岩蜂妙见宫”。

虽也别名“九头龙列石群”(くずりゅうれっせきぐん),但此名更限定地指代从平安时代(へいあんじだい)初期到江户时代(えどじだい)后期,在长时期内环绕佳城市建造的大量石碑、以及天然或人工的石壁。

此遗迹群大致可分为:

① “从古坟时代到奈良时代(ならじだい)”

② “从奈良时代到平安时代”

③ “从平安时代到镰仓时代”

三个时期,像这样多个时代的遗迹重叠遗留的状态,被称为“复合遗迹”(ふくごういせき)。

或许是由于特异的盆地地形,山麓及山中各时代的居住遗迹在全国范围内也属罕见,至今发掘调查仍在持续进行中。

关于此列石群的成因,至今在学术上仍未明确,目前佳城市教育委员会及十都川大学等教育机构仍在进行各种调查。

在文献资料方面,弘安六年(公元1283年)阿佛尼(あぶつに)的《十六夜日记》(いざよいにっき)中首次提及,描述为“人工垒石众多,岩山甚是险峻,下山之人步履维艰”,由此可推测至少在该时代已有大量石壁或石碑被建立起来。


姫射干/姫著莪(ひめしゃが)

佳城市(かいじょうし)的市花是姬射干(ヒメシャガ,Iris gracilipes,常写作姫射干、姫著莪)。

这种花群生于盆地的斜坡及森林地带。佳城市的姬射干多为绀色至青紫色的花,花期在三月下旬至四月下旬,相较于常规品种开花更早。

这在全国范围内也属于罕见案例,尽管它本就是一种耐寒性很强的植物。

曾有将其移植到其他地区的尝试,但其只表现出与普通姬射干相同的生长和开花习性。因此有观点指出,其独特的颜色和早开特性,或许是受佳城市特有的土壤环境影响。


日文原文:

稜祁(たかぎ)家

主人公「稜祁恂(たかぎしゅん)」「稜祁祥那(たかぎさな)」の家系。

稜祁という姓は、神の威光を示すという意の「稜」と、大いなるという意の「祁」を意味する。

稜祁家は元々は佳城という土地一帯の統率していた家系である。

しかし長い歴史の中で、次第に発言権や土地の支配力を他の家に奪われていった。

現在は、本家筋だけしか稜祁家の人間はおらず、主人公とその実妹の二人のみ。彼らが直接知る血縁の親戚もいない。

親類も長い時間の中で全国に散らばり、既に親の世代で連絡も取れず、行方が知れない状態になっている。

稜祁邸は、二階建ての近代建築物で佳城市の中央に位置する。

一般的には『旧寒河江邸(きゅうさがえてい)』として近代建築物の著名な物件として知られているが、現在は「大忌比古神社」の氏子筆頭である稜祁家の住宅として利用されている。

なお、この建築物は佳城市景観重要建築物に指定されている。

佳城市に残る文献『寒河江文書(さがえもんじょ)』によれば、現在の建築物周辺の土地は、古くは室町時代(むろまちじだい)から稜祁氏とその分家である寒河江氏が治めた土地であり、彼らの住居としてだけではなく、大忌比古神社の祭事のために集まった周辺住民や遠来からの参拝客の宿坊として用いられたことが記録に残っている。

元々の持ち主である寒河江家は、複数の離れ座敷のほか、蔵が優に三つも建つほど広大な土地を所有するほどの財力を 持つ佳城市の名家であった。

しかし、大戦後に不幸な事故が立て続けに起きると徐々にその家名は衰えていき、現在残っている母屋と蔵一つを所有する程度になってしまう。

戦後に寒河江家が断絶すると、現在はその本流である稜祁家と、大忌比古神社の有力な氏子である澳城家(おくしろけ)が土地や住居を管理することとなった。


澳城(おくしろ)家

ヒロインのひとり、「澳城迪希(おくしろ ゆき)」の家系。

澳城(おくしろ)という姓は、『奥津城』、墓を意味する古語に由来する。

現在の澳城家(おくしろけ)は佳城市(かいじょうし)の最も有力な名士であり、市政への発言権も強い。

澳城邸(おくしろてい)は、佳城市の東に位置する貝寄町(かいよりちょう)内に存在する澳城家の邸宅。

大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)」の有力な氏子(うじこ)であり、佳城市で最も影響力のある澳城家の住宅として利用されている。

敷地内には移築された旧イギリス大使館(きゅうイギリスたいしかん)の別荘や、有沢弌通(ありさわ いちどう)の『明々庵(めいめいあん)』の写しである幕末(ばくまつ)期に建てられた『鸚鵡庵(おうむあん)』など、佳城市景観重要建築物に指定されている建築がある。

中文机翻:

稜祁(たかぎ)家

主人公稜祁恂(たかぎ しゅん)与稜祁祥那(たかぎ さな)的家系。

姓氏“稜祁”意为,表示神之威光的“稜”与表示广袤宏大的“祁”。

稜祁家本是统率佳城一带土地的家系。

然而在漫长的历史中,其发言权及土地支配力逐渐被其他家族夺走。

如今,稜祁家仅余本家血脉,只有主人公及其亲妹二人。他们直接知晓的血缘亲戚也已不复存在。

其他亲属也在漫长岁月中散居全国,至父母一代便已失联,处于下落不明的状态。

稜祁邸是一栋位于佳城市中心的二层近代建筑。

该建筑通常被称为“旧寒河江邸”(きゅう さがえてい),作为近代建筑的著名物业而闻名,但现今则作为大忌比古神社首席氏子——稜祁家的住宅使用。

此外,该建筑被指定为佳城市景观重要建筑。

据佳城市遗留文献《寒河江文书》(さがえ もんじょ)记载,现今建筑周边的土地,自古室町时代(むろまちじだい)起便由稜祁氏及其分家寒河江氏治理,不仅作为他们的居所,亦有记录表明曾为参与大忌比古神社祭事而聚集的周边居民及远方参拜者提供宿坊。

原主人寒河江家曾是佳城市的名门,财力雄厚,拥有广阔土地,除多处独立厢房外,更建有足足三座仓库。

然而,大战后接连遭遇不幸事故,家道逐渐中落,至今仅余主屋一座与仓库一处。

战后寒河江家血脉断绝,如今则由其本家稜祁家与大忌比古神社的有力氏子澳城家(おくしろけ)共同管理土地与宅邸。


澳城(おくしろ)家

女主角之一澳城迪希(おくしろ ゆき)的家系。

姓氏“澳城”(おくしろ)来源于意为“坟墓”的古语“奥津城”。

如今的澳城家佳城市最具影响力的名门望族,在市政方面也拥有很强的话语权。

澳城邸位于佳城市东部的贝寄町,是澳城家的宅邸。

作为大忌比古神社的有力氏子,该宅邸是佳城市最具影响力的澳城家的住宅。

宅地内移建了旧英国大使馆的别墅,以及幕末时期仿造有泽弌通的“明々庵”所建的“鹦鹉庵”等,这些建筑均被指定为佳城市景观重要建筑。

日文原文:

壟峯(つかみね) 家

ヒロインのひとり、「壟峯碧織(つかみね みおり)」の家系。

壟峯(つかみね)という姓は、墓を指す「塚」と同じ意味である「壟」と、高い山の「峯」を意味する。

古来より佳城市(かいじょうし)の物流を支配する有力な家系であったが、現在ではかつてほどの権勢は持っていない。

壟峯邸(つかみねてい)は、佳城市の北西に位置する日諸木町(ひもろぎちょう)内に存在する壟峯家の邸宅。

大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)」の有力な氏子(うじこ)であり、佳城市で古い歴史を持つ壟峯家の住宅として利用されている。

土地自体は古くから場所は変わっておらず、北西部に存在する古道『彌彦抜(やひこぬき)』へと続く道の途中にある、築年数もそれほど経っていない新しい建築物である。

壟峯家に伝わる古文献『加羅橋三代記(からはしさんだいき)』には、かつて江戸時代(えどじだい)以前から破風のない東屋という建築様式の住居に住んでいたことが記されている。


道陵(みちおか) 家

ヒロインのひとり、「道陵愛莉(みちおか あいり)」の家系。

道陵(みちおか)という姓は、「みささぎ=墓」を意味する「陵」への道を現している。

道陵邸(みちおかてい)は、佳城市(かいじょうし)の西に位置する白鷺町(しらさぎちょう)内に存在する道陵家の邸宅。

大忌比古神社(おおいみひこじんじゃ)」の有力な氏子(うじこ)であり、佳城市の古い名家である道陵家の住宅として利用されているこの建築物は、佳城市を代表する近代建築物の物件として知られており、佳城市景観重要建築物に指定されている。

最初は複雑な屋根構成を持った和風建築の邸宅であったが、光文(こうぶん)十一年に洋風建築へと改築され現在に至っている。

大理石が用いられた玄関や暖炉のほか、室内のアール・デコ調のステンドグラスや照明器具は大正(たいしょう)から光文にかけて整えられたもので、外観の和洋折衷的な特徴に負けない素晴らしさを今に伝えている。

戦前の探偵小説家である小城魚太郎(おぎ うおたろう)の名作『聖瑪利亜邸殺人事件(セントマリアていさつじんじけん)』に登場する、巨大洋館のモデルの一つと言われている。

中文机翻

壟峯(つかみね) 家

女主角之一壟峯碧織(つかみね みおり)的家系。

姓氏“壟峯”意为,与指代坟墓的“塚”含义相同的“壟”,以及高山之“峯”。

该家族自古便是支配佳城市物流的有力家系,但如今已不复往日权势。

壟峯邸位于佳城市西北部的日諸木町,是壟峯家的宅邸。

作为大忌比古神社的有力氏子,该宅邸是佳城市历史悠久的壟峯家的住宅。

土地本身自古未变其址,坐落于通往西北部古道“彌彦抜”的途中,是一栋建成年代不长的新建筑。

壟峯家传承的古文献《加羅橋三代記》记载,该家族曾于江户时代以前居住在不设破风(一种山墙装饰)的“东屋”式建筑中。


道陵(みちおか) 家

女主角之一道陵愛莉(みちおか あいり)的家系。

姓氏“道陵”寓意着通往意为“陵墓”的“陵”之路。

道陵邸位于佳城市西部的白鷺町,是道陵家的宅邸。

该建筑作为大忌比古神社的有力氏子暨佳城市古老名门道陵家的住宅,以代表佳城市的近代建筑而闻名,并被指定为佳城市景观重要建筑。

宅邸最初为拥有复杂屋顶结构的和风建筑,在光文十一年改建为西式风格并留存至今。

除了采用大理石建造的玄关与暖炉外,室内的装饰艺术风格彩绘玻璃及照明器具均是在大正至光文年间添置的,其精美程度不输于建筑外观的和洋折衷特色,至今仍熠熠生辉。

据传,它是战前侦探小说家小城魚太郎的名作《圣玛利亚邸杀人事件》中出现的巨大西式宅邸的原型之一。

日文原文:

惺鳳館学園(せいほうかんがくえん)

学校法人惺鳳会(せいほうかい)』が運営する教育機関

佳城市の西に位置する白鷺町内に存在する。

生徒数は一学年につき二百八十人前後で、略称は「惺学(せいがく)」。

明治三十七年漢学者である「道陵聖修(みちおか せいしゅう)」によって『惺鳳高等女学校(せいほうこうとうじょがっこう)』として創立され、戦後学制改革に伴って共学制となり現在に至る。

元々学園のある場所は、大忌比古神社の境外社である「磐長神社(いわながじんじゃ)」が建てられており、規模は小さいながら村社として近隣の信仰を集めていた。

その社務所一画で、創設者叔父道陵蕃遵(みちおか ばんけい)」が子女学問を教えるための私塾を開いていたことが学園の前身となる。

戦後は共学制となり、戦前名声実績を引き継ぐように有名進学校として躍進すると、県外から受験する生徒の数が増加し、その結果、佳城市内に数箇所の学園専用寮作られることとなる。

現在理事長は、道陵愛莉の母親である「道陵得子(みちおか とくこ)」。


星鴻祭(せいこうさい)

大忌比古神社の大祭式例祭。地元の人間によって、単に『例祭』と呼ばれることもある。

全国的に分布している『酉の市』の特殊な例と考えてもらえばよい。

大忌比古神社では三月下旬から四月上旬にかけて行われるが、他の神社のようには日付が確定していない。

これは祭神である大忌比古命の神意を

問い、霊威に見合った吉日を期間内から選び抜いてから行われるためである。

また「鴻」(おおとり) という字を使う理由として、祭神が当地に出現した際、二羽の白鶏が付き添ったという社伝に由来する。

このため大忌比古命の神使は白い鶏とされ、現在の『酉の市』的性格にも少なからず影響している。

本来『酉の市』は十一月に行われ、全国的にみても大忌比古神社の祭礼時期は特殊である。

祭礼当日には、佳城市の中央を南北に貫く『蜂宮大路』に縁起熊手を販売する露店などが立ち並び、交通規制が敷かれるほど周辺地域から観光客で賑わいを見せる。


佳城市における平将門伝説

佳城市にも平将門伝説が伝わっており、京都で晒し首となっていた将門の首が宙に浮き、空を駆けて胴体を捜しながら怨念をまき散らしながら人々を苦しめていたところ、妙見尊星王の命によってやってきた磐蜂大師(いわばちたいし)によって鎮められたという。

将門の首が落ちて封じ込められた場所は、現在の大忌比古神社の奥社とされ、将門の首とその怨念から土地を守るために神社が創建されたというのが、同市に残る岩蜂大師伝説における来歴である。

平将門の首塚としては東京都千代田区大手町のものが最も有名だが、首だけでなく腕や腹といった別の部位が飛来し、封じ鎮められていると言われる土地はいくつもある。

この佳城市における将門伝説は後世に付与されたもの——古くとも江戸期以降とされ、元々は忌部野(佳城市の古名)に伝わっていた古形の伝説が、平将門伝説と混じり合ったものとみなすほうが合理的である。

その証拠に、岩蜂大師の伝説以外に将門由来の伝説が現在の佳城市やその周辺で伝わっていない。

また史実と照らし合わせても佳城市を含む一帯は、平安時代から渡辺党による荘園支配から始まり、源平合戦の際にも頼朝の挙兵に呼応した源氏ゆかりの土地であったため、源氏ゆかりの伝説が多く残っている。

このため、平将門伝説がなぜ大忌比古神社の創建伝説に付与されたのかは極めて謎が多い。

中文机翻

惺鳳館学園(せいほうかんがくえん)

学校法人惺鳳会(せいほうかい)”运营的教育机构

位于佳城市西部的白鷺町。

学生人数为每学年约二百八十人简称惺学(せいがく)”。

该校于明治三十七年由汉学家道陵聖修(みちおか せいしゅう)创立,初建时为“惺鳳高等女学校(せいほうこうとうじょがっこう)”,战后学制改革转为男女共学**并延续至今。

学院现址原本建有大忌比古神社境外社磐長神社(いわながじんじゃ)”,其规模虽小,但作为村社曾汇集了附近的信仰

学院的前身创始人的叔父道陵蕃遵(みちおか ばんけい)在神社社务所一隅为教授子女学问而开设的私塾**。

战后学校改为共学制,承袭战前名声实绩,作为知名升学学校迅速发展,从县外前来报考的学生人数增加因此在佳城市内修建了数处学院专用宿舍

现任理事長为道陵愛莉的母亲道陵得子(みちおか とくこ)。


星鴻祭(せいこうさい)

大忌比古神社(おおいひこじんじゃ)的大祭式例祭。在当地人的口中,也简称『例祭』。 可将其视为全国分布的『酉之市(とりのいち)』的特殊范例。 大忌比古神社的祭典于三月下旬至四月上旬举行,但与其他神社不同,日期并不固定。 这是因为要请示祭神——大忌比古命(おおいひこみこと)的神意,
从该时段内挑选与灵威相符的吉日方才举办。 此外,使用“鸿(おおとり)”字的缘由,据社传记载,是祭神现身本地时,曾有两只白鸡伴随。 因此,大忌比古命的神使被视为白色公鸡,这一观念也对如今的『酉之市』特色产生了不小的影响。
原本『酉之市』多在十一月举行,放眼全国,大忌比古神社的祭礼时期可谓独树一帜。 祭礼当天,贯穿佳城(かいじょう)市中央南北的『蜂宫大路(はちのみやおおじ)』上,摆满售卖吉祥熊手的摊位,甚至实施交通管制,吸引周边地区游客,热闹非凡。


佳城市(かいじょうし)流传的平将门传说
传说在京都遭斩首示众的平将门之首级悬浮于空,一边飞掠天际寻找躯体,一边散播怨念折磨百姓;最终奉妙见尊星王之命而来的磐蜂大师(いわばちだいし)将其镇封。
据说首级坠落并被封印之地,正是现今大忌比古神社(おおいひこじんじゃ)的奥社;为了守护这片土地免遭将门首级及其怨念侵害,才创建神社——这便是留在佳城市的“岩蜂大师传说”中的由来。
作为平将门首冢,东京千代田区大手町的最负盛名,但据传不仅首级,连手臂、腹部等部位也飞散各地并被分别镇封。
佳城市的将门传说应属后世附会——最早不过江户时期,更合理的看法是:原本流传于忌部野(佳城市古称)的古老传说,与平将门故事混杂而成。
证据在于,除岩蜂大师传说外,现今佳城市及其周边并无其他源自将门的口传。
对照史实,包括佳城市在内的这一带自平安时代起便由渡边党经营庄园,源平合战时期又因响应赖朝举兵而成为源氏势力范围,故留存的多为源氏相关传说。
因此,平将门传说为何会被附会为大忌比古神社的创建缘起,仍充满谜团。


日文原文:

磐蜂大師(いわばちたいし)

大忌比古神社の伝説上の創健者。

平将門の首が飛翔して再び関東の地に戻ろうとした時、関東の鎮守である二荒山神、鹿島神から助勢を頼まれた妙見尊星王によって東大寺の不動明王像が蜂の大軍と化し、将門の首を追いこれを封じようとした。

しかし将門の怨念は強く、力尽きて落ちた忌部野の地でなお呪詛を撒き散らして、土地の人々を困らせた。

そこで妙見尊星王はよって、最も大きな蜂は人間に変化して磐蜂大師と名乗り、残りの蜂たちもそれぞれ護法童子となって大師に従い、妙見尊星王から授けられた武器を用いて、将門の怨念をようやく封じ込めたのである。

この時、大地は鳴動して大きく地形が変わったという。

現在の『九頭龍列石群』の由来とされる。

磐蜂大師と護法童子たちはそのまま同地に残って妙見尊星王を祭る社を建てたあと、彼らは現在も毎夜その土地中を駆け巡り、そこに住む人々の話を聞き取って悩みを取り除いているという。

なぜ夜に行動するかというと、人の悩みを聞き、取り除いているうちに大師の容貌は黒く、怪物のように変わってしまったため、その容貌が人々の心を障らせないよう夜に土地を駆け巡るのだという。


天祝御狐(あまのはふりのみこ)

『天祝御狐』(あめのはふりのみこ)とは、社殿にて主祭神である大忌比古命へ奉納する神楽『四座舞(しざまい)』を舞う巫女のこと。

『四座舞』の四座とは、同社の伝説上の創健者である磐蜂大師が使役した護法童子たちのことで、それぞれ「丹生都童子」「俵童子」「摩虎羅童子」「滝夜叉童子」を指す。

興味深い内容としては、四座のうち一人の巫女が大忌比古命の和魂である白鶏の代わりに夜通し神に付き添うため、主な神楽は残る三人の巫女で行われる点にある。

一般参拝客が拝観出来るのも三人の巫女が舞う『三座舞』(さんざまい) までで、どの四座の一人が抜けるかはその年によって異なるといわれる。

『天祝御狐』が着用する巫女装束は全国的に類例のない特殊なものであり、社伝によれば磐蜂大師に付き添った護法童子の姿を模しているとされる。

またこの神楽では狐面を被ることがあり、この意匠も磐蜂大師伝説に由来している。

伝説によれば大師の正体は天狗であり、使役した童子たちの本性も山天狗や川天狗であったとされ、天狗が「あまきつね」と呼ばれたことから天狗と狐という繋がりが生まれ、時代を経て意匠が習合していったと思われる。


古伏(ふるふせ)

大忌比古神社に伝わる古い硯。

端渓硯(たんけいけん) という種類のもので、中国広東省広州の深山幽谷から掘り出された原石を用いて作られる逸品を指す。

大忌比古神社のそれは、別名『樊籠硯(はんろうけん)』と呼ばれる。

北宋時代の端渓硯と推定され、社伝によれば峡南の坑仔岩で採れた貴重な石を用いているという。

大忌比古神社の祭礼において使用される神具。

同地に咲くヒメシャガの全草を磨り潰して煎じ詰めたものに、一切の口外禁止の製法によって作られた薬液と混ぜて染料を作り、この硯に注ぎ込む。

そして清められた絹糸を浸して丹念に染めていき、それらは各家の真田紐を織り上げられるために用いられる。

中文机翻:

磐蜂大师(いわばちだいし)
大忌比古神社(おおいひこじんじゃ)传说中的创建者。
传说平将门的首级在空中飞掠,企图重返关东之地时,身为关东镇守的二荒山神与鹿岛神向妙见尊星王求援;于是东大寺的不动明王像化作蜂之大军,一路追赶并试图封印将门之首。
然而将门的怨念极其强烈,蜂群力竭坠落于忌部野(いんべの)之地,仍不断散播诅咒、困扰百姓。
于是妙见尊星王令最大的那只蜂化为人形,自号“磐蜂大师”,其余蜂群则成护法童子,追随大师。他们以妙见尊星王赐予的法器,终将将门怨念封镇。
相传当时大地轰鸣,地形剧变,即今日“九头龙列石群(くずりゅうれっせきぐん)”的由来。
磐蜂大师与护法童子便留在当地,建社奉祀妙见尊星王;据说至今他们仍在每夜巡行四方,倾听居民烦恼并为之化解。
之所以只在夜间行动,是因为长期吸纳众人之苦,大师容貌逐渐变得漆黑如怪物,为避免惊扰世人,故择夜而行。


天祝御狐(あまのはふりのみこ)
“天祝御狐”指在神殿为主祭神大忌比古命(おおいひこみこと)献舞神乐《四座舞(しざまい)》的巫女。
“四座”即传说中磐蜂大师所役使的护法童子:丹生都童子(にうつどうじ)、俵童子(たわらどうじ)、摩虎罗童子(まこらどうじ)、滝夜叉童子(たきやしゃどうじ)。
有趣的是,由于其中一名巫女须彻夜陪伴作为大忌比古命“和魂”的白鸡,正式神乐常以剩余三人起舞,故称“三座舞(さんざまい)”。一般参拜者仅能观赏此三人舞,至于哪一位巫女缺席则每年不同。
“天祝御狐”所穿的巫女装束在全国亦属孤例,社传称系模仿护法童子之姿;神乐中有时戴狐面具,同样源自磐蜂大师传说。
相传大师本体为天狗,其童子亦多为山天狗、川天狗之流,而天狗古称“甘木狐(あまきつね)”,由此“天狗—狐”意象交融,遂成今日形制。


古伏(ふるふせ)
传自大忌比古神社的古砚。属端溪砚(たんけいけん)一类,以采自中国广东省广州深山幽谷之原石精制而成。
该砚又称“樊笼砚(はんろうけん)”,推定为北宋端溪砚,社传称其石料取自峡南坑仔岩,至为珍贵。
此砚于神社祭礼中用作神具:将当地生长的姬射干(ひめしゃが)全草研磨、煎煮、浓缩后,与严禁外传的秘制药液调和成染料,注入砚内;再以清净绢丝浸泡其中,细细染色,所得丝线用以织制各家真田纽(さなだひも)。


日文原文:

鷦(しょう)

ミソサザイを意味する『鷦』(しょう) と名づけられた、澳城家に代々伝わる刀剣。 その形状は古い月山刀のような直刀に近い造りで、非常に繊細な綾杉肌に似た波紋がつけられている。

各家に伝来している刀剣の中で最も日本刀らしい姿を誇り、同時にこれを扱う人間は一定の技量が要求される。


鶻(こつ)

ハヤブサを意味する『鶻』(こつ)と名づけられた、壟峯家に代々伝わる刀剣。

その形状は大陸風の刀剣に近く筑紫薙刀のような特異な形をしており、刃部分の造り自体は鵜の首造りに近い作風である。

見た目は大振りであるが、特殊な鋼が使われているのか非常に軽く、片手でも充分扱える重さになっている。


中文机翻:

鷦(しょう)
被命名为意为“鹪鹩”的“鷦”(しょう),是澳城家世代相传的刀剑。
其形制近似古月山刀的直刀,刃身可见极细腻的“绫杉肌”状波纹。
在各家的传世刀剑中,它最具典型“日本刀”之姿,同时对使用者的技艺要求也最为严苛。


鶻(こつ)
被命名为意为“隼”的“鶻”(こつ),是壟峯家世代相传的刀剑。
其形制接近大陆风格,呈筑紫薙刀般的特异弧线,刃部采用“鹈首造”手法。
外观虽宽大,却因使用特殊钢材而异常轻盈,单手便可轻松挥舞。

日文原文:

鷁(げき)

サギに似た架空の水鳥を意味する『鷁』 (げき) と名づけられた、道陵家に代々伝わる刀剣。

その形状は中反りの峰部分に刃を入れた二本の刀を、両刃の剣として繋ぎ合せた特異な形で、西洋剣のような風貌を持つ。 樋の部分は緻密な細工が施されているが、基本的にマタギが使うナガサの如き

武骨で重厚な造りである。そのため、小太刀よりもわずかに長いだけだが、片手で持つには困難な重さになっている。

鴦(おう)

オシドリの雌の意味する『鴦』(おう)と名づけられた、稜祁家に代々伝わる刀剣。

その形状は鎬造り ・ 鋒両刃の古代剣風の短刀で、柄頭に遊環が二つ付いている。

他の家に伝わる刀剣より保存状態が良くないが、自然な壊れ方ではないことがわかっている。


中文机翻:

鷁(げき)
被命名为意为“似鹭之幻水鸟”的“鷁”(げき),是道陵家世代相传的刀剑。
其形制为:将两把中反、峰部开刃的刀,剑背相抵并合为一柄双刃之剑,呈西洋剑般风貌。
刀脊虽施细密镂刻,却整体保持猎师所用“长鞘”般的粗犷厚重,因此仅比小太刀略长,却已单手难握。


鴦(おう)
被命名为意为“雌鸳鸯”的“鴦”(おう),是稜祁家世代相传的刀剑。
其形制为镐造、锋部双刃的古代剑风格短刀,柄头装有两枚游环。
保存状态逊于他家传世之刀,且破损痕迹显非自然老化所致。

日文原文:

佳城四種(けいじょうよんしゅ)

大忌比古神社の氏子各家には、『佳城四種』と呼ばれる古玉が伝わっているが、材質や加工方法に不明な点が多く、研究者の間でも謎めいたものとして有名である。

倣古玉(ほうこぎょく) と呼ばれる、古いの時代のデザインを後世において模倣して作られた工芸品も存在するが、この『佳城四種』は明らかに古い時代に高度な加工の施された、一種のオーパーツとも言える代物である。

●地黄丸獅子(じおうまるじし)

澳城家に代々伝わる古玉(こぎょく)の一種。

宝珠を持つ獅子を象った意匠を持つ。秦時代のものではないかとされる。

●翠廻(あおまわり)

壟峯家に代々伝わる古玉(こぎょく)の一種。

翠色の這い回る蛇を象った意匠を持つ。秦時代のものではないかとされる。

●地黄丸狛(じおうまるこま)

道陵家に代々伝わる古玉(こぎょく)の一種。

若い狛犬を象った意匠を持つ。秦時代のものではないかとされる。

地黄丸獅子と作風が似ており、色も似ているから同じ作り手による物とされている。

●赫蝉(せきせん)

稜祁家に代々伝わる古玉(こぎょく)の一種。

赤い蝉を象った意匠を持つ。前漢の含蝉(がんせん)、死者の口に含ませる副葬品を模したものではないかとされる。

真田紐(さなだひも)

真田紐とは、機で織られた平たく幅の狭い織物の紐で、その名前は真田昌幸 ・信繁父子が堺の商人を通じて各地に販売したことが由来だとされる説があるが、佳城市のそれは戦国時代より前から伝承している可能性が高い。

この紐の特徴として、伸びにくく丈夫であり、重いものを吊ったり、しっかりと物を縛る事に使う。

一部のものには、家紋の様に家 ・ 個人の決められた柄があり個人や家の認証に使われたりする。

大忌比古神社の氏子筆頭である稜祁家を始め、有力氏子である澳城、壟峯、道陵など各家によって紐先部分の意匠が異なり、代々家に伝えられてきた柄を施している。

二十年前後の周期で行われる特殊な例大祭である『大忌比古御縁奉祝大祭』で用いられるもの。

氏子である各家の親族一同は神事の期間中、必ずどこかに着用するか所持していることが義務付けられる。

●稜祁一重織(たかぎひとえおり)

稜祁家の模様は「ともすればあだなる風」と名づけられており、三十六歌仙の一人である小野小町の歌から採られている。

●澳城一重織(おくしろひとえおり)

澳城家の模様は「春霞かすみて往にし雁がね」と名づけられており、三十六歌仙の一人である紀友則の歌から採られている。

●壟峯一重織(つかみねひとえおり)

壟峯家の模様は「いざこと問はむ 都鳥」と名づけられており、三十六歌仙の一人である在原業平の歌から採られている。

●道陵一重織(みちおかひとえおり)

道陵家の模様は「琴の音に峰の松風」と名づけられており、三十六歌仙の一人である斎宮女御の歌から採られている。


中文机翻:

佳城四种(けいじょうよんしゅ)
大忌比古神社(おおいひこじんじゃ)氏子各家传有四枚古玉,合称“佳城四种”。其材质与加工方式成谜,被研究者视为“神秘遗物”。
虽存在后世仿制的“仿古玉(ほうこぎょく)”,但“佳城四种”显然以高超技术远早于后世,堪称欧帕兹级别的珍品。
●地黄丸狮子(じおうまるじし)
澳城家传古玉,雕作衔珠狮子,推测为秦代所作。
●翠廻(あおまわり)
壟峯家传古玉,雕作翠色盘蛇,推测为秦代所作。
●地黄丸狛(じおうまるこま)
道陵家传古玉,雕作幼狛犬,与“地黄丸狮子”色泽、风格一致,被视为同匠之作。
●赫蝉(せきせん)
稜祁家传古玉,雕作赤蝉,仿前汉含蝉(がんせん)——死者口含之陪葬玉。


真田纽(さなだひも)
真田纽是一种机织窄幅扁平带。一说因真田昌幸、真田信繁父子经堺商贩卖而得名,但佳城市(かいじょうし)的纽极有可能早于战国。
特点为不易拉伸、坚固耐用,可吊重物或紧缚。部分纽织有家纹级图案,用作家族或个人认证。
大忌比古神社氏子首户稜祁家(たかぎけ),以及澳城(おくしろけ)、壟峯(つかみねけ)、道陵(みちおかけ)等强家,均在纽端织以代代相传的独图案。
每约二十年举行一次的“大忌比古御缘奉祝大祭(おおいひこごえんほうしゅたいさい)”指定使用。祭期内,各家亲族必须随身佩戴或携带。
●稜祁一重织(たかぎひとえおり)
图案名“或将随风成泡影”,取自三十六歌仙小野小町和歌。
●澳城一重织(おくしろひとえおり)
图案名“春霞迷雁影”,取自三十六歌仙纪友则和歌。
●壟峯一重织(つかみねひとえおり)
图案名“欲问都鸟”,取自三十六歌仙在原业平和歌。
●道陵一重织(みちおかひとえおり)
图案名“琴音与峰松风”,取自三十六歌仙斋宫女御和歌。



表情包图片(每一张都有有水印和无水印版本,这里只展示无水印版本)

爱莉

碧织
迪希
祥娜

菩乃花



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